(事故の全貌がわからないまま書いています)

2018年7月1日、非常に残念なクルマ事故が岡山の国道で起きた。

1日午前4時55分ごろ、岡山市北区青江の国道30号で、中学2年の男女5人=いずれも13歳=が乗った乗用車が中央分離帯などに衝突、同市の少女1人が車外に投げ出され、頭を強く打って死亡した。他の3人も足の骨を折るなど重傷、1人が軽傷。岡山南署は誰が無免許運転をしていたかなど、当時の状況を詳しく調べている。

同署によると、5人は岡山、倉敷市の市立中学校4校に通う男子3人、女子2人。知人同士で、車はいずれかの家族のものとみられる。事故は片側2車線の見通しの良い直線道路で発生。車は中央分離帯に乗り上げ、車体の左側が鉄製のポールに巻き付くように止まり、ドアなどが激しく壊れていた。

出典:中学生5人の車が事故、少女死亡 岡山の国道、無免許の可能性:山陽新聞デジタル|さんデジ

ニュース記事を読んで思うことは多々あった。まず「無免許の可能性」とあるが、「中学生だから当たり前だろw」ということ。いや、そんなことはどうでもいい。

最も気になるのは、どのような過程を経て中学生だけでクルマの運転をするに至ったのか?

とても信じられないような出来事であり、二度と起こってほしくない事故であるので、自分なりに考えてみた。

なぜ中学生だけで運転をしたのか?

中学生は規範意識が低いから

中学生の行動には、物事の分別がつかない規範意識の低さが多々見られる。だからイジメは絶えないし、今回のような信じられない事故だって起こる。

こうした問題行動は、確信犯だと考える。「よくない」と知っているだけでなく、親や教師から叱られるとわかった上で問題行動を起こしている。

この行動原理には「目立ちたい」という目的がある。人は他者から認めてもらえないとき、「認められなくてもいいから、とにかく目立ってやろう」と考える。とにかく目立ち、居場所を作りたいのだ。

結果として「悪い子」や「できない子」を演じ、注目を得ようとする。物事の分別がつかない状態である。それが今回の無免許運転に繋がったのではないか。

中学生の親が子どもを放任するから

子どもを第一に認めてあげるべきは、親である。しかし事故を起こした中学生の親はそれを疎かにし、子どもを放任していたのではないか?

放任とは子どもが何をしているのかを知ろうとしない態度であるが、これでは子どもが問題行動を起こしてまで目立とうとするのも無理はない。

僕は放任教育に否定的だ。放任によって、子どもの愛は憎しみに変わってしまう可能性があるのが理由の一つだ。

そもそも「目立ちたい」のは「もっと自分を尊重してほしい」という愛の希求であるが、それが求められないとき人は一転して憎しみを求めるようになる。

「愛してくれないなら、いっそ憎んでくれ」。そうなると子どもはひたすら相手が嫌がることを繰り返し、その行為によってのみ相手と繋がろうとするのだ。それが今回の無免許運転に繋がったのではないか。

どうすれば防げた?

親が子どもを援助すべきだった

親の放任がなければ、子どもの問題行動は防げたはずだ。よって今回の事故は、親の放任が根源であると考える。

対人関係には、放任、介入、援助とあるが、親は子どもに援助の姿勢を常に示すべきだろう。そうすれば親と子どもの対人関係は良くなると信じている。

しかし思春期の子どもの接し方というのは難しいと思う。僕は長男だが、末っ子の妹の教育に親は悩んでいたのを思い出した。

クルマは凶器であると認識すべきだった

中学生に限らないが、これを認識している大人も多くはない。危険運転ドライバーはそれほど多い。

クルマは、ナイフや銃と同じだ。その使い方がわからなければ、生活を便利にする道具では決してなくなる。

これも中学生に限らないが、基本的に危険運転ドライバーは想像力が弱い。その行為が自分や乗員、また歩行者などの命を奪いかねないことを認識していない。

想像力を働かせれば、とても危険運転をしようとは思わないし、中学生も無免許運転しようとは思わなかっただろう。

まとめ

今回の事故は本当に残念だ。もし自分の子どもだったらと考えると余計だ。

今回のような事故が起きないことをただただ祈るばかりである。

動画でも喋ってみました。